平成18年12月10日松川先生を囲む会

12月10日(日)に新神戸駅のそばのホテルIsago で「松川先生を囲む会」が開かれました。私達のクラス(25P)の前川君が幹事となって企画をしてくれ 関西在住者を中心に9名が参加しました。また26Pから奥村信子さんと小泉ゆり子さんも来てくださいました。私は先生にお目にかかるのは10年ぶり。先回は1996年に新校舎の同窓会会館で開かれた同窓会の時です。

服部 和



 松川秀郎先生は87歳になられたということで もともと小柄な先生がまたひとまわり小さくなられたような印象でした。髪も真っ白です。耳も少し遠くなられたようで 隣に座った私は他の人たちの話すことを大きな声で先生に伝える役に。きちんとしたスーツ姿でおしゃれなネクタイの先生はかつての教え子たちに囲まれて終始笑顔でした。










先生のお言葉:
当日の参加者を見て:「女が多いなあ」(昔から女子学生の方がずっと多かったですよ)
「女は白髪にならんなあ」(まあ、いろいろと工夫しておりまして)
私を見て:「ほお、君はこんな風になったんか」(なんと解釈すれば?)
「だれかが手紙を送ってきよってな」:(先生、それは私です! びっくりされるといけないので前もって手紙と写真をお送りしたんですが。。)



先生と千葉君と私です。こんなやさしい笑顔で好々爺に見えますが往年の毒舌も健在です。先生のバックグラウンドをほとんど知りませんでしたが お生まれは松山だそうです。その後大阪で育って北野中学から大阪外大に進学、陸軍幼年学校でロシア語の教師となり前線には出ないまま終戦を迎えたのだそうです。神戸外大をおやめになった後は京都産業大学、さらに80歳まで関西学院大学で教えていらしたとのこと。息子さんも大学教授(経済学)、お孫さんは東大生ですって。






現在は奥様と伊丹で悠々自適の二人暮し。千葉君の話だと奥様はとても元気で若々しい方だそうです。ちなみに奥様は国立音大ピアノ科出身。その奥様の手料理で一日3回きちんと食事を取り、毎日一時間散歩、そして感謝の気持を忘れないように心がけて暮らしていらっしゃるそうです。これが元気で長生きの秘訣かもしれませんね。
久保先生、桜木先生、小松先生などの話も出ました。松川先生から「君たちは久保先生の事をどう思っていた?」と聞かれましたが 私は恐かったですね。とても威厳があって近づき難い感じでした。当時先生たちはほとんどが東京外大出身で一人だけ大阪外大出身の松川先生にはいろいろ難しいこともあったようです。露作文の指導は大変なのでどの先生も敬遠し 結局松川先生のところに回ってくるのでよく露作文を引き受けざるを得なかったとのことでした。私達が入学した年は先生は交換教授としてモスクワに行っておられたので初めてお会いしたのは2年になってからだったと思います。松川先生には作文の指導を受けたほか4年生の時にはシンタクシス(ロシア語構文)の授業も受けました。この授業の最後に先生はいつも「わかりましたね?よござんすね!」と言われるのですが 全然理解できない私は「よござんす」どころではありませんでした。



学生時代は授業の後よく先生の研究室におじゃましていました。先生のお部屋にはいつもインスタントコーヒーやお菓子があり遠慮なくいただきながら先生のお話を聞いていました。また研究室にはよく先生のかつての教え子たちが訪ねて来られて、その方たちと先生のお話を聞くのも楽しみだったことを覚えています。



これは1976年1月30日松川先生の研究室でのスナップです。私達は4年生で松川ゼミ最後の授業の後の記念写真だったと思います。後ろに立っているのは左から松尾(大浦)典子さんと高北(加藤)葉子さん。前列は左から私、井門恭子さん、武藤久登君、先生、石橋隆二さんです。テーブルの上には例によってコーヒーやお菓子があります。そしてウイスキーの瓶のようなものが見えていて気になるのですが、、、ここでお酒を飲んだ記憶はありません



楽しい時はあっという間にすぎて 4時になってしまいました。名残はつきないのですが記念撮影をして先生とお別れしました。最後に初めて先生に握手していただきましたが とても力強い握手でした。前川君が車で先生をご自宅まで送って行ってくれました。 先生のお誕生日は6月1日だそうです。「来年暖かくなったらみんなで先生の米寿のお祝いがしたいね。」と話しながら家路につきました。



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